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SC【1日目】
今日からジム通いを始めることになりました。
子供の頃から大の運動嫌いの私が果たして続くのか!?
乞うご期待、といったところ。

まぁ、月2回だし、一人でやるんじゃないからそこそこ続くとは思うんですけどね。

ジム、には昔から興味があったんです。
体は鍛えたい。けれども運動は苦手。
「ジムにお金を払っていたら、もったいないからちゃんと通うんでは?」とは思いましたが、
「そんなことはない。やらない人間は「もったいない」と思っても結局やらない」と
他人から言われ、私自身も「そうだろうな」と思っていたので、今まで手を出さなかったのです。

ではなぜ今ジムなのか?というと、
発端は旦那の背中の痛み。

整形外科の先生によると、筋肉の使いすぎによる
筋肉の緊張から来ているそうで、大きな病気ではないそうですが
1年くらい痛みが続いているので「根本的な解決方法はありませんか?」と聞いた所
「腹筋と背筋を鍛えるのがいい。水泳なんか良いんだけど」と言われました。

腹筋と背筋…そういえばその2つは、私も整体の先生から
鍛えるようにずっと前から言われている部位でした。
ずっと座りっぱなしの姿勢のまま、1日じゅう働いている私にとって
腰にかかるダメージとそれにより発症する病気(ヘルニア)などは
懸念材料でした。

旦那に筋トレをすすめるなら…私もやるべきでは?

旦那は昔水泳をしていたことがあるし、現在も肉体系の仕事に就いているので
体を鍛えることは苦ではないよう。昔スポーツジムに通っていた経験もある。
問題は「お金が勿体無い」だそうですが、そこは生活費のほとんどを出してもらっている私が
全部出すから!ということで、二人で始めることにしました。

筋トレだけなら家でやっても十分なのはわかってる。
けれども、一人じゃ絶対続かないんですよね。それが運動嫌いが運動嫌いな所以。
旦那と一緒なら、いやぶっちゃけ、私のほうが「監視してもらえる」なら
そこそこ続くかも…

というわけで、とりあえず半年を目処に初めてみることにしました。

幸い、家の近くにコナミスポーツクラブがあるので、そちらへ入会。
トレーニングマシンやエクササイズのプログラムもありますが、
私たちは水泳を中心に始めることに。
私の目下の目標は、「水に慣れること!!!」

そう、私は水が大の苦手。
お風呂なら大好きですが、冷たい水に肩まで浸かると体が固まってしょうがありません。
なので、しばらくは水中ウォーキングを初めて
水に慣れることと、基礎体力を付けることに専念することにします。



初日はレクリエーションがあったのですが、その時間まで
ウォーキングマシンを10分ほど使わせてもらいました。

歩くだけでなく、前の画面を色々操作すると
日本一周旅行ができたり(歩く距離に合わせて観光地巡りが出来る。
もちろん、本当の歩行距離ではない)、マルバツゲームができたりして
飽きないような工夫がされてるんだなぁと関心しました。

私も東京の表参道を旅してみたりしましたが、
最後の画面に「もうちょっとペースを上げましょう」と言われて
大きなお世話だと思いました(笑)。

レクリエーションで主なマシンの使い方を聞いた後は、
いよいよプールへ。
久しぶりのプールはやっぱり怖くて、旦那に「そんなに怖いの!?」
とびっくりされました。私もびっくりするくらい体がガチガチです。

とりあえずウォーキングレーンを6往復しましたが、
体の力を抜くのに精一杯という感じ。
まっすぐ進めないし、体は思うように動かないし、たしかにコレはいい運動です。

最後にジャグジーに浸かり体をほぐした後は浴室へ。
しかし、ここからが大変だった。水泳の後だから着替えはないし、
髪もボタボタのままで更衣室に行く訳にはいかないし…
結局さっと体を拭いて慌ててロッカーまで行き着替えを取って引き返し、浴槽へ。
やっぱり暖かいお湯は和みます。
体を洗い髪を洗い、水着を脱水したら髪を乾かして着替えて終了。

なんか、最後のが一番疲れた気がします。

いろいろ課題は見えてきましたが、まずは持っていく道具ですね。
まずは汗ふきタオル。そして飲み物。水を容器に入れても良いそうなので
からのペットボトルでも大丈夫っぽいですが。
音楽を聞くならiPod。
プールに行く時にすでに着替えを持っていくこと、
そして化粧水や櫛も持って行っておいたほうがいいこと。
それらを入れるバッグも必要。本当、旦那の用意してくれていた
大小の入れ物には救われました。

次回は来月の頭…なんですが、早くも仕事の関係で行けなさそう…
まぁ、その時は年末にまとめていくか、1回だけなら来月に回せるそうなので
それでも良いかな。

初めてやってみた感想としては、体を動かすこと自体は楽しい。
それもコレも旦那が一緒にいてくれるからですが、
無理なく、嫌だなと思わない程度に頑張っていこうと思います。

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by choyushi | 2015-11-22 23:19 | トレーニング | Comments(0)
人がモンスターになる日
テロリストとも話し合いをするべきだという人がいる。
まぁ、現実的ではないと思う。

しかし、では相手がどういう人間で、こういう経緯でテロリストという
モンスターになったのか、知らなくても良いという事にはならないと思う。

テロリストは残虐非道で人を人とも思わない連中だ。
しかしそんな輩でも「人間」である事には変わりない。
信じたくない人は信じようとしないが、彼らは「化け物」でも「畜生」でもなく
「人間」なのだ。

「人間」でさえなければ、簡単に「始末」してお仕舞いに出来る。
だがそれは、かつてスペインがペルシャを侵略する時に
「彼らは高度な知性を持たない野蛮な首狩族なので、我々が人間らしい生活を教えてやらなければならない」と上から目線で決めつけ、蹂躙したのを思い出させる。

彼らは「人間」なのだ。
認めたくなくても、そこから認めない限り本当の終結は見えてこないと思う。

人間がモンスターに変わる経緯を分かりやすく紹介していたので引用する。

抑圧された怒り。これはストレス研究の手法の1つである、ナラティブ・スタディから明らかにされた怒りである。ナラティブ・スタディでは、自分に起きたことや、そのときの気持ちを、ありのままに語ってもらうことで、数字でははかることのできない、複雑な人間の感情を知ることができる。
 抑圧された怒りは、慢性的なストレスにさらされることから生まれる情動の1つだ。どんなにがんばったところで、抜け出すことができない社会。どんなに能力を発揮したところで、国籍、宗教、肌の色、学歴、性別などの属性が壁となり、認めてもらえない社会。
 そんな社会構造に身を置く人たちは、常に慢性的なストレスの雨にさらされ、不安、恐怖、絶望、悲しみなどのネガティブな感情に疲弊する。
 ところが、心の地下にある抑圧された怒りが表面化するまで、本人ですら、それが怒りであることに気付かない。
 なので、ある人は怒る前に、生きる力を失い無気力になり、ある人は怒る前に、生きる意味を失い死を選ぶ。また、ある人は自分のネガティブな感情を、他者に悟られないように無理をして振る舞う。
 そして、この抑圧された怒りを秘めた人々が群衆になったとき、怒りのマグマが一気に爆発する。暴力的で、残虐な行為として発散されるのだ。
 すると、怒りが暴力的な快感になり、ネガティブな生きる力が増幅される。暴力的な快感とか、ネガティブな生きる力だなんて妙な表現だが、暴力は人間を興奮させ、「オレは生きてるんだ!」と快感をもたらすのである。
 「生きてる!」躍動感と、「怒りの発散」の爽快感にハイジャックされた心には、道徳心や倫理観のかけらもない。世間の常識や理屈が全く通じなくなり、自らを正当化するための、頑固で勝手で暴力的な思考が、行動を支配する。
 残虐で、卑劣な行為を平然と行うイスラム国の勢力が拡大した背景にも、この“抑圧された怒り”があるとする専門家は少なくない。テロや政治には、私はど素人だ。だが、抑圧された怒りを抱いている人たちにとって、モンスターたちが発するメッセージは、極めて魅力的だったに違いない。ここにいけば、この人たちを信じれば、この不愉快な感情と離れられる――。人間誰もが持ち合わせている弱さに、モンスターたちはつけ込んだ。
 もちろん彼らがやっていることは極めて卑劣で、残虐で、決して許すことなどできない。だが、社会から排除された人たちの“抑圧された怒り”の存在を知っておく必要はあると思う。なぜ、その怒りが生まれたのか? いかなる社会構造が、その怒りのタネになったか? ということをだ。
 怒りの芽を摘み取らない限り、悲劇は繰り返される。そして、何よりも私たち自身も、怒りのタネをまく側に決してなってはならない。

テロリストに限らず、人を殺す事で何かを成し遂げたつもりになる類の人間はいる。
もちろん、そんなのは幻想、妄想、それ以前の問題なのだが、しかしどうしてそう思い込んでしまうのか? 私には長年疑問だったが、これを読んでしっくりした。

抑制された陰鬱な生がまずあり、それが発散された姿が殺人なのだ。
怒りによって放出されたアドレナリンが快楽を感じさせるのだろう。
きわめて不健全な快楽の感じ方だが、それを言ったところで麻薬を打って快楽を得ている人間に「そんな不健康な快楽はだめだ」と諭すようなもので、無意味だろう。彼らにはそんな言葉より、実際に感じている快楽の方が現実なのだから。
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殺された人の親類、知人、友人は犯人に対して堪えられない憎しみを抱いているだろう。人としてその感情は正しい。しかし、私は幸いにしてそうではない。そういう人間だからこそ感情を律して「真の勝利」に付いて考える事が出来ると思う。いや、しなければならない。

では、テロに対する「真の勝利」とは何か?

今日、有能なリーダーを育てるだけではまったくもって不十分であると改めて断言できる。それどころか、リーダーたちに自信と手段を与え、彼らが自分の価値観を主張し、自分と似たもの同士だけで共有する目標に向かって突き進むようになったら、事態はますます悪化するであろう。そうではなく、我々に今必要なのは、自分たちの価値観と目標が本当に正しいのかを改めて問い直し、自分とは違う人々の価値観と目標を理解しようとするゆとりである。リーダーであろうとなかろうと、すべての人にそのゆとりが必要である。
 教育の最終的な目的は、文明社会を守り育てることだ。それは、例え地域に深く根ざした文化だろうと世界中に広がった文化だろうと、ある特定の集団の文化だけを守り、喧伝していくこととは違う。それは民族主義を、しかも偽りの民族主義を育てる道だ。
 文明社会を育成するというのは、同じ集団の中にも異なる集団の間にも存在する本質的な違いを認めるための好奇心と、その違いを尊重しようとする決意を我々のなかに育てることだ。そのために必要なのはより有能なリーダーではなく、より人間味のあるリーダーである。外部と対立を起こすよりも、心の中に対立を抱え込んで悩むようなリーダーだ。そのようなリーダーは、周りの空気に流されるほうが安全に思える時でも、自分の心の声に従い、また他人が彼ら自身の心の声を見つける手助けをする。
 民族グループを率いる優れたリーダーはすでに大勢いる。我々に今必要なのは、民族ではなく文明社会のためのリーダーを増やすことだ。
 そう考えると、我々が本当に必要としているのは、より強い指導力(リーダーシップ)というよりも、より強い連帯感(フェローシップ)である。連帯感とはすなわち、例え共通の歴史・経験・未来を持たない人々とであっても、同じ困難を共に分かち合える感情である。それは、人々の分断化と原理主義がこれまでよりはるかに一般化した今こそ最も必要とされる感情である。連帯感は分断化と原理主義の両方に対する解毒剤となる。必ずしも相手と「同一」でなくても、相手を「異質である」と感じなくて済むからだ。
 言葉だけでは言い表せない時、沈黙を貫いたり、大声で叫んだり、暴力に訴えるのは簡単だ。だが、言葉で話し合うことこそ今の我々には必要だ。とりわけ、言葉にしたくないだろうことについて話し合うことが──。
 違いを認めない不寛容さによって戦いに勝つことはできない。違いを認めてこそ初めて互いを尊重し合えるのである。


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by choyushi | 2015-11-17 14:33 | ニュースに発言 | Comments(0)