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人がモンスターになる日
テロリストとも話し合いをするべきだという人がいる。
まぁ、現実的ではないと思う。

しかし、では相手がどういう人間で、こういう経緯でテロリストという
モンスターになったのか、知らなくても良いという事にはならないと思う。

テロリストは残虐非道で人を人とも思わない連中だ。
しかしそんな輩でも「人間」である事には変わりない。
信じたくない人は信じようとしないが、彼らは「化け物」でも「畜生」でもなく
「人間」なのだ。

「人間」でさえなければ、簡単に「始末」してお仕舞いに出来る。
だがそれは、かつてスペインがペルシャを侵略する時に
「彼らは高度な知性を持たない野蛮な首狩族なので、我々が人間らしい生活を教えてやらなければならない」と上から目線で決めつけ、蹂躙したのを思い出させる。

彼らは「人間」なのだ。
認めたくなくても、そこから認めない限り本当の終結は見えてこないと思う。

人間がモンスターに変わる経緯を分かりやすく紹介していたので引用する。

抑圧された怒り。これはストレス研究の手法の1つである、ナラティブ・スタディから明らかにされた怒りである。ナラティブ・スタディでは、自分に起きたことや、そのときの気持ちを、ありのままに語ってもらうことで、数字でははかることのできない、複雑な人間の感情を知ることができる。
 抑圧された怒りは、慢性的なストレスにさらされることから生まれる情動の1つだ。どんなにがんばったところで、抜け出すことができない社会。どんなに能力を発揮したところで、国籍、宗教、肌の色、学歴、性別などの属性が壁となり、認めてもらえない社会。
 そんな社会構造に身を置く人たちは、常に慢性的なストレスの雨にさらされ、不安、恐怖、絶望、悲しみなどのネガティブな感情に疲弊する。
 ところが、心の地下にある抑圧された怒りが表面化するまで、本人ですら、それが怒りであることに気付かない。
 なので、ある人は怒る前に、生きる力を失い無気力になり、ある人は怒る前に、生きる意味を失い死を選ぶ。また、ある人は自分のネガティブな感情を、他者に悟られないように無理をして振る舞う。
 そして、この抑圧された怒りを秘めた人々が群衆になったとき、怒りのマグマが一気に爆発する。暴力的で、残虐な行為として発散されるのだ。
 すると、怒りが暴力的な快感になり、ネガティブな生きる力が増幅される。暴力的な快感とか、ネガティブな生きる力だなんて妙な表現だが、暴力は人間を興奮させ、「オレは生きてるんだ!」と快感をもたらすのである。
 「生きてる!」躍動感と、「怒りの発散」の爽快感にハイジャックされた心には、道徳心や倫理観のかけらもない。世間の常識や理屈が全く通じなくなり、自らを正当化するための、頑固で勝手で暴力的な思考が、行動を支配する。
 残虐で、卑劣な行為を平然と行うイスラム国の勢力が拡大した背景にも、この“抑圧された怒り”があるとする専門家は少なくない。テロや政治には、私はど素人だ。だが、抑圧された怒りを抱いている人たちにとって、モンスターたちが発するメッセージは、極めて魅力的だったに違いない。ここにいけば、この人たちを信じれば、この不愉快な感情と離れられる――。人間誰もが持ち合わせている弱さに、モンスターたちはつけ込んだ。
 もちろん彼らがやっていることは極めて卑劣で、残虐で、決して許すことなどできない。だが、社会から排除された人たちの“抑圧された怒り”の存在を知っておく必要はあると思う。なぜ、その怒りが生まれたのか? いかなる社会構造が、その怒りのタネになったか? ということをだ。
 怒りの芽を摘み取らない限り、悲劇は繰り返される。そして、何よりも私たち自身も、怒りのタネをまく側に決してなってはならない。

テロリストに限らず、人を殺す事で何かを成し遂げたつもりになる類の人間はいる。
もちろん、そんなのは幻想、妄想、それ以前の問題なのだが、しかしどうしてそう思い込んでしまうのか? 私には長年疑問だったが、これを読んでしっくりした。

抑制された陰鬱な生がまずあり、それが発散された姿が殺人なのだ。
怒りによって放出されたアドレナリンが快楽を感じさせるのだろう。
きわめて不健全な快楽の感じ方だが、それを言ったところで麻薬を打って快楽を得ている人間に「そんな不健康な快楽はだめだ」と諭すようなもので、無意味だろう。彼らにはそんな言葉より、実際に感じている快楽の方が現実なのだから。
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殺された人の親類、知人、友人は犯人に対して堪えられない憎しみを抱いているだろう。人としてその感情は正しい。しかし、私は幸いにしてそうではない。そういう人間だからこそ感情を律して「真の勝利」に付いて考える事が出来ると思う。いや、しなければならない。

では、テロに対する「真の勝利」とは何か?

今日、有能なリーダーを育てるだけではまったくもって不十分であると改めて断言できる。それどころか、リーダーたちに自信と手段を与え、彼らが自分の価値観を主張し、自分と似たもの同士だけで共有する目標に向かって突き進むようになったら、事態はますます悪化するであろう。そうではなく、我々に今必要なのは、自分たちの価値観と目標が本当に正しいのかを改めて問い直し、自分とは違う人々の価値観と目標を理解しようとするゆとりである。リーダーであろうとなかろうと、すべての人にそのゆとりが必要である。
 教育の最終的な目的は、文明社会を守り育てることだ。それは、例え地域に深く根ざした文化だろうと世界中に広がった文化だろうと、ある特定の集団の文化だけを守り、喧伝していくこととは違う。それは民族主義を、しかも偽りの民族主義を育てる道だ。
 文明社会を育成するというのは、同じ集団の中にも異なる集団の間にも存在する本質的な違いを認めるための好奇心と、その違いを尊重しようとする決意を我々のなかに育てることだ。そのために必要なのはより有能なリーダーではなく、より人間味のあるリーダーである。外部と対立を起こすよりも、心の中に対立を抱え込んで悩むようなリーダーだ。そのようなリーダーは、周りの空気に流されるほうが安全に思える時でも、自分の心の声に従い、また他人が彼ら自身の心の声を見つける手助けをする。
 民族グループを率いる優れたリーダーはすでに大勢いる。我々に今必要なのは、民族ではなく文明社会のためのリーダーを増やすことだ。
 そう考えると、我々が本当に必要としているのは、より強い指導力(リーダーシップ)というよりも、より強い連帯感(フェローシップ)である。連帯感とはすなわち、例え共通の歴史・経験・未来を持たない人々とであっても、同じ困難を共に分かち合える感情である。それは、人々の分断化と原理主義がこれまでよりはるかに一般化した今こそ最も必要とされる感情である。連帯感は分断化と原理主義の両方に対する解毒剤となる。必ずしも相手と「同一」でなくても、相手を「異質である」と感じなくて済むからだ。
 言葉だけでは言い表せない時、沈黙を貫いたり、大声で叫んだり、暴力に訴えるのは簡単だ。だが、言葉で話し合うことこそ今の我々には必要だ。とりわけ、言葉にしたくないだろうことについて話し合うことが──。
 違いを認めない不寛容さによって戦いに勝つことはできない。違いを認めてこそ初めて互いを尊重し合えるのである。


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by choyushi | 2015-11-17 14:33 | ニュースに発言 | Comments(0)
必要なのは「本当の事」だけ。
「死の町」という表現は福島県民の思いに合っている 鉢呂経産相 辞めるべきでない=44%の調査も

鬼のクビを取ったかのように声を荒らげる記者
「死の町」「放射能をうつした」などの発言を巡り、鉢呂吉雄経済産業相が、10日、辞任した。同日、記者会見を開いたが、その様子はニコニコ生放送でも中継された。

辞任のきっかけとなった言動についての具体的な説明を求める記者が多くおり、中には、
説明しろって言ってんだよ!

と声を荒らげて詰問する記者まで現れたが、これに対しては、別の記者が、
記者なら敬意を持って質問して下さい

と一喝した。

「死の町」という表現は間違っていない
品性を欠く質問の仕方を一喝したのはどうやらフリージャーナリストの田中龍作氏のようだが、その田中氏自身は、
「死の町」という表現はむしろ福島県民の思いに合っている、それほど悲惨な状況であるのだから、鉢呂氏の表現は間違いではない。また、ネット上には辞めるべきではないという意見も多くある。

という旨の発言をした。

これに対し、鉢呂氏は、田中氏の言葉を「温かい」と感謝、また、
町はそのままにあるのに、人っ子ひとりいない町の様子を見ると、そのような表現しか浮かばなかった

という趣旨の答えを返した。

辞めるべきではない=44%
田中氏は、今回の辞任は記者たちの「言葉狩り」であると警鐘を鳴らす。放射能をうつすような行動をとったとすれば、それは許されない行為だ。

しかし、「死の町」という表現が、“見捨てられた町”の意味ではなく、「町の様子は何一つ変わっていないのに、そこにもはや簡単には人が入ることすらできない」という、本当に悲惨な状態を示す表現として用いられたのであれば、むしろ、そのような状態に追い込んだ責任の所在を突き止めることの方が重要ではないだろうか。

中継の最後にはニコニコ生放送視聴者に対して、辞任すべきかのアンケートが実施された。結果は以下のようになった。
辞任すべき:41.1%
辞任すべきでない:44.0%
わからない:14.9%



ネットではわりと「死の町」発言に対して
目くじら立ててる人がいないんですよね。

むしろ「放射能付けるぞ」という発言は、
記者の発言に腹を立てて思わず言ってしまった言葉、
みたいな噂もありますし。

そりゃそうですよね。普通に考えて、
いきなりつかつかと歩み寄って「放射能付けるぞ〜」みたいな
小学生のようなことをするわけがない、というのは
まともな大人なら想像できそうなものです。

ちゃんとどういう発言を受けての事なのか、がはっきりしないと、
その言葉尻だけをあげつらえても説得力がありゃしない。
書かれた誌面をそのまま信じる程、マスコミに信用がない事くらい自覚してほしいものです。

そもそも、ソースもなしに「あの人があんな事言ってたよ」なんて言葉を
鵜呑みにする阿呆がどこにいるのかと。

もし「記者は経産相を挑発するような事を言っていない」と言うのなら、
それこそソースを呈示するべきだ(そうすりゃ誰も文句は言わない)し、
それが出来ないならおとなしくすっ込んでろ、と言いたい。



しかし経産相があっさり辞めたのにもひっくり返った。
誤解があるなら誤解だ、マスコミの対応に不満があったのだったらそう言えば良い。
経産相なんて大役を受けたなら、それに対する自信と誇りを持つべきじゃないのか。
そもそも「辞めれば責任を負える」と考えてるのがおかしいだろ。
役人は大変な仕事だと言う自覚をちゃんと持ってください。
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by choyushi | 2011-09-13 11:20 | ニュースに発言 | Comments(0)
液晶画面の向こうには
浜崎あゆみさんに暴言したファン、ツイッターでフルボッコに

このニュースとは直接関係ないことですが、
最近考えていたことが浮き彫りになった形なので
自分の覚え書きとしても書いておきたいと思います。

会話は人下と人間をつなぐコミュニケーション。
そしてそれの延長線上にあるインターネットというのは
さらに遠くの人とも意思疎通出来る素晴らしい道具だと思います。

知るはずの無かった方と知り合え、
マイナーな趣味でも分かち合う友を得(笑)、
人生の伴侶すら見つけ出すことが出来ます。

その一方で、考えなしに暴言を吐き、
人を不快にさせ、自らも敵を作ってしまう人がいます。

この人も、オフラインの身内だけで、それも口頭だけで
「こないだあゆに音楽関係の話つぶやいたのに返事くれないのーチョームカツクー」
と愚痴でもすれば、こんなことにはならなかったはずです。
そして次の日には何も無かったかのようにあゆのファンを続け、
つぶやき続けたのだと思います。

何がいけなかったのかと言うと、
ちょっとした想像力と、配慮が足りなかったということでしょう。
それは日頃の人間関係ですら実行するのが難しい事でもあります。
この言葉を言ったら傷つくんじゃないか、他に言い方は無いのか、
タイミングはどうか、電話の方が良いのか手紙が良いのか…
常に色々考えつつ、私たちは発言し、相手との意思疎通を図っているはずです。

インターネットだと、気軽であるとか、相手が見えないという理由で
その辺の配慮が疎かになってしまいがちです。
オフラインでしっかりした人でも、その辺のことを忘れてしまう人がいます。
特にmixiなどのSNS系は「表示範囲に守られている」という意識が働くのか
痴話げんかや鬱日記、果ては殺人予告までしてしまう始末です
(殺人予告をするマイミクはいないので、そういう人が表示範囲を設定しているのか
全体表示にしているのかは知りませんが…)。

ネットに書き込んだ以上、それは半永久的にそこに留まり、
どこまでも無限に広がる可能性を含んでいます。

例えば私が今ここでダウナーな内容を書いてしまえば、
それは来年にも再来年にも残り、遠い未来で見た読者の人に
「こいつはこんなことを考えているのか」と思われてしまっても仕方が無いのです。
後に改心して、そんな気持ちをなくしてしまったとしても。
仮にその書き込みを消したとしても、誰かがデータを復活させたり、
スクリーンショットやコピーを残しておいたりしたら…。

ツィッターやつぶやき機能により、私たちはさらに気軽に
インターネットで発言をするのが容易になりました。
それはしかし、決して自分の発言に責任を持たなくていいということではなく、
さらに気をつけて自分の発言を見直さなくてはいけないということに他なりません。

昔、ビートたけしさんが事件を起こしたとき、
タモリさんに報道陣が「何と声をかけるのか」質問した所
「友達なんだから話すことは直接会って話す。個人の会話を、校内放送するつもりは無い」
というようなことを言ったそうです。
まさにその通りで、実はTVもネットも変わらないのです。

「今日マジ鬱」「あたまいたーい」「○○にこんなことされた。死ねば良いのに」
そんなことを、自分では限られた範囲の人間に言ってるつもりでも、
本当はメガホンを持って、町中に叫んでいるのと同じことなのです。
そういった想像力をちょっと働かせて、自分の発言が不特定多数の人間に
どう映っているのか、一度立ち止まって考えるクセを付けることが必要だと思います。


ちなみに、私はこんな糞真面目なことを、糞真面目な文体で語っていることを
リアル友に見られたらと思うと恥ずかしくて仕方ありません(*ノノ)(←ダメじゃん)
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by choyushi | 2010-09-30 18:34 | ニュースに発言 | Comments(0)
相変わらず残念な造型ですね
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タコのおもちゃ引っ張りダコ、W杯予想のパウル人気で=北京

小学生の落書きかよ。
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by choyushi | 2010-07-15 12:10 | ニュースに発言 | Comments(0)
茶番だな
東京で「離婚式」、共同作業で結婚指輪つぶす(ロイター) - エキサイトニュース
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結婚指輪なんかどうでも良いから、
友人達に結婚式の時いただいたご祝儀を返すとかしたら?


本文
[東京 21日 ロイター] 日本の離婚件数が増えるなか、東京・浅草にある浅草寺で20日、親族や友人の前で夫婦生活の終わりを宣言する「離婚式」がとり行われた。

 セレモニーを手掛けたのは、昨年4月に「離婚屋敷」を設立し、「日本初の離婚式プランナー」を自称する寺井広樹さん。

 式典では参列者が見守るなか、離婚する夫婦が最後の共同作業として、自分たちの結婚指輪を「変える」にちなんでカエルの顔をあしらったハンマーでたたきつぶした。

 費用は5万5000円。寺井さんによると、これまでに約25組が同様のセレモニーを行ったほか、900件を超える問い合わせが寄せられている。

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by choyushi | 2010-06-22 11:25 | ニュースに発言 | Comments(0)
かわいい
中国で「パンダ柄」のチャウチャウ犬が登場(ロイター) - エキサイトニュース
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 [鄭州(中国・河南省) 8日 ロイター] 中国・河南省にある動物公園で8日、パンダのように染められたチャウチャウ犬がお目見えした。地元メディアによると、この動物公園は来園者を楽しませることを目的に、4匹のチャウチャウ犬のほか、「トラ柄」に染められた1匹のゴールデンレトリバーも購入したという。


これぞ本当の客引パンダ?

って、いっぱいいる!
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by choyushi | 2010-06-09 12:18 | ニュースに発言 | Comments(0)
全部の世話出来んのかね?
ブラジル南部に捨て犬や捨て猫の「スラム街」 | Excite エキサイト

スラムというから犬猫の無法遅滞みたいになっているのかと思いきや、
律儀に1匹1個の犬小屋が造られててビックリした。
なかなかクレイグ・グラントさんの猫の町のようなことはできないもんだね…
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by choyushi | 2010-05-26 18:32 | ニュースに発言 | Comments(0)
オリンピックならぬパクリンピック
上海万博マスコットにもパクリ疑惑、米国キャラに「生き写し」

…なんてくだらない駄洒落はいいとして、
なんでマスコットに先行者を使わなかったのか
それが残念でなりません。
あれこそ世界に誇る
頼まれてもパクろうと思われない
オリジナルデザインだったのに…
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by choyushi | 2010-04-21 15:23 | ニュースに発言 | Comments(0)
服装ぐらい・・・
「国母騒動はイジメ」 ホリエモンが服装原理主義批判

「会見で肩肘ついて話したとか言われてまた文句言われてる。もうさ高校球児とかじゃないんだからさ。そんなんで文句言うなよな。ていうかイジメでしょこれって」と騒ぎを批判した。


常識のある社会人に言わせたら

「もうさ高校球児とかじゃないんだからさ。
服装ぐらいちゃんとしろよ。
今までどういう教育受けて生きて来たんだよ。
その年でそんなんだったら
これから先の人生大変だよ」

ってことだと思うんだけどね。


ただこの件に関しては、
「ふさわしくないと思うんならそもそも
選手として選ぶなよ」と思う。
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by choyushi | 2010-02-16 19:16 | ニュースに発言 | Comments(2)
言ってしまった一言言えなかった一言繰り返す
恋愛が面倒だと思うことはありますか? | Excite エキサイト


久しぶりのエキサイトブログに恋愛論など書いてみますよ?

恋愛って特別なことだと思っている人が多いと思うんですが、
結局「愛」の形の一つだと思うんで別にその辺に転がってるものだと思うんですよね。
つまり、親子愛、兄弟愛、友愛だって立派な愛ですよね。

愛とは何か?という哲学的な問いに対して、
難しく考える人も多いですが、私は人間として
当たり前に持っている思いやりの心だと思っています。
だからそんなに難しく考える必要はないのではないかと。

さてでは、何故恋愛だけ「面倒くさい!」と思う人がいるのでしょうか?
そこには「自分に対する欲」があるからだと思います。

「欲」自体が悪いとは思いません。「欲」は人間の原動力です。
ご飯が食べたいから働くし、自分の環境を良くしたいから努力もする。
楽をしたいから工夫をするし、好かれたいから親切にする。

だけど、自分の欲望に他人を巻き込むのはいかがなものか、と思うのです。

会いたいのに会ってくれないとか、
メールしても返事してくれないとか、
逆にメールが面倒だとか、

そういうことってちゃんと話し合った上で「面倒」だと言っているのでしょうか。

人間は会話というツールを持ってコミュニケーションを取る動物です。
恋人同士だからといって、以心伝心ではありません。
「私のして欲しいことを分かってくれる」のはただの偶然ですし、
「あの人の考えてることが分かる」のは、相手の思考パターンを読んでいるだけです。

そういうことを踏まえて、一人の時間が欲しいなら
「束縛はイヤ(その代わり自分も相手を束縛しない)」と言うべきだし、
メールが頻繁に来るのがイヤなら「意味のないメールには返信できないよ」と言うべき。

その辺の話し合いが通用しない相手なら、それこそその先やっていけないでしょう
(相手も、自分のことしか考えてないわけですから)。
そもそも、恋人以外の人とだって話し合いは必要不可欠なことなのに
一番大事な人との話し合いを避けてて何が恋愛なのでしょうか。
人と関わり合うのが面倒なら、生きてる事自体を放棄しているようなものです。

恋愛は一人では出来ません。そうすると必然的に「お互い様」の連続になってきます。
私は今まで見て来た中で、「私(俺)ばっかり○○してる」という恋人同士は
ほぼ例外なく破局しています。
面白いもので、片方が「私ばっかり我慢してる!」と言ってる人に限って
相手も同じような愚痴を言っているのです。

反対に、全然性格が合わなくても「まぁ、向こうも色々我慢してくれてるし」
と言ってる人たちは夫婦になり幸せな生活を送っています。

考え方というか、気の持ちようというか、
やはり相手の立場や苦労を考えない人は
相手にも分かってもらえないということでしょう。
そりゃ、こっちに相手を思いやる気持ちがなければ、
相手だって嫌気がさしますよね。

好きな人がいない、とか積極的に恋愛をする気がないというならともかく
(そもそも相手あってのことなのに、まず恋愛ありきなのがおかしい)、
恋愛が面倒だと言ってる人は、相手に感謝するのを面倒がってるようにしか見えません。
好きな相手なら、してくれたことにはお礼を言うし、
要望は出来るだけ誠意を持って話し合うことが出来るでしょう。




とはいえ。

好きな相手だから逆に話し合うのが怖いというのもあるかもしれません。
タイトルの言葉はTMNのある歌の歌詞ですが、
これって恋愛(というか破局)を端的に表してるよなぁと思います。
あの時ああ言ってれば良かったとか、あれは言うべきじゃなかったとか。
別れた後にぐずぐず考えてしまうものなんですよね。

でもまぁ、たった一言で決定してしまうようなものでもないと思うので
(よっぽどのことを言わない限り)思い悩むのは結局
自分を悲劇の主人公に仕立てたいだけの口実だと思うんですけどね(言い過ぎ?)
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by choyushi | 2009-09-10 12:59 | ニュースに発言 | Comments(0)